昭和48年08月08日 夜の御理解



 稽古をしておるようであっても、それはほんとの稽古になっていなかったという元は、結局腹が、ほんとに一心になっていなかったと言う事だろうと思うんだけれどもね。稽古しておるようであって一心の稽古をしていない、所に何かが起きてくると、それが役に立たない。玉水の湯川先生は、この一心と言う事その言う事は、必ずと言うものが伴わなければ一心ではないというふうに教えておられる。
 心という字にこうやってかんぬきを入れよと、すと必ずという字になろうがというて教えられたと言う事です。かんぬきが入っていないなら心で信心、稽古をしておると思うとるだけの事であって、それを、それが一心になっていない証拠に、ね、だからもう必死とか、必ずとかと言う様な、そのかんぬきがちゃんと一つ入らせて頂く所から、例えばお参りならお参りを一心に定める。そこからその一心の貫かれておる人は、それを矢張り貫きますけれども、お参り何か例えば用事がでける。
 何かが都合があるともう、それは神様から許されておると言う様な気持ちで、そこを疎かにする一心というたらひとつ、もう必ず必死と言う事である。こりゃもうどんな場合であっても、信心の稽古のこれ一つの、ほんとの意味においての稽古の基本になるもの。これは矢張り一心を立てなければでけない。こりゃ信心の稽古おかげを頂くというてもそう。そこに一つ心にかんぬきを入れさせてもろうて、必死必ずと言う様な所におかげがなっていかなければいけないと思うですね。
   どうぞ。